花宇宙 ひとつらなりの生命(いのち)


幸島百番目のサルによる自然生活だより。
by sunnyww-yo
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2012年 05月 17日 ( 2 )


受け継いだタスキ

人生のタスキって何だろう・・・?
わたしが思うに、もちろん自分自身の身体に流れる祖先の尊い血。

その血を受け継いでくれる子どもたちを授かり育てること。
その子どもたちの未来の環境を健やかなものとして残す責任など

目に見えるものと、見えないものを同時に感じ身体を通してつなぎ
残していく生き方つまり文化のようなもの。

それは私が40歳を迎え、末っ子が中学を卒業するようになったころから
感じるようになった不思議な感覚でした。

それまで友人知人もいない見ず知らずの宮崎に嫁いできて、
3人の子どもたちのPTAや出産で落ちた体力回復のために始めた
バドミントンを通じ、多くのお母さんたちや仲間と知り合い楽しい生活を
送っていたころでした。

街を歩けば何人かの知人と出会い宮崎弁で立ち話をするようになるなど、
当時姑と買い物に出た時など「あなたはすごいわね~、こんなにお多くの

お友達ができたなんて!」と感心され、
「私なんか家の中ばかりの仕事だから何年住んでいても・・・」

と自分の人生を振り返りながら、私のことを
出来の良い嫁でありまた娘として嬉しそうに見てくれているのを感じました。

この義理の母とのことはまた後で書くとして・・・。

そんな私が末っ子の中学校の卒業式で学年委員長として保護者代表の
謝辞を述べさせてもらうことになりその原稿を準備しながら、

中学卒業当時の自分を振り返り、あの野山を走りまわること以外
能のなかった私が、子どもたちのおかげでここまで成長でき、
自分がこの場(ステージ)に立てることが「すごい!」と感じられました。

こうして自分の成長を実感しながら卒業式につぎ謝恩会も無事終わり、
役員もこれで解散と言うとき、思わず口から自然にでてきた言葉が
「さぁ~これで好きなことをしょう!」でした。

周りのお母さんたちが一瞬かたまり「今までは?」と聞き返されましたが、
「今までは子どものために親としての務めの時間でしょう・・・」

「親としての義務を終えたのだから・・・」と応えながら、
自分でもなんでこの言葉が出てきたのかは深く考えませんでした。

しかし子育ては三人三様と言うけれど、M大付属の幼・小・中学校、
公立の保育園・小・中・高校、二番目の娘のおかげで養護学校など
「健やかな子どもの成長」を願う親としていろいろな教育の場を
のぞかせてもらうことができました。

また子どもの父親は大阪の真ん中で育ち、子どもの時から温厚で
勉強好きの努力家だったようで、周りからの信頼も厚くこれまで
大した問題もなく生きてこれたようで私や子どもたちも尊敬できる人でした。

おかげで子どもたちは学業を除いてはほぼ問題なく成長してくれました(笑)。

それに比べ子供たちに一番関わり「お母さん」という立場で威張っている
私は、先にも述べたように大きい声では言えませんが唯一自慢できるものは
体力で稼ぐ「体育」のみでした(汗)。

その私が末っ子の義務教育が終わる晴れ舞台で「保護者代表謝辞」などという
大役を終えた自分をほめてやりたいと感じたのも分っていただけると思います。

当時夫の職業柄、私をPTAの役員に選んで下さったお母さんたちは、
私が人のお世話ができる出来る人(優秀)に思えたのでしょうが、

本当は役員をさせていただいたおかげで「少し出来る人」になれたのだと
私をひきたてて下さった仲間のお母さんたちにも「ありがたい」と
感謝できるようになっていました。

あまり信仰心も持ち合わせていない私でしたが、
神様がいるとしたら、私の神さまは「三人の子どもたちだ!」
と強く思うようになりました。

この子育ての時間、つまり三人が義務教育を終える(のべ約50年)こそが、
私が成長し「生涯豊かな人生」を送るための土台を造る宝の時間だったと
思っています。

そんな時間をくれた子どもたちや家族に「ありがたいなぁ~」
と感謝の念で、家族の好物を食卓に並べたような気がしますが・・・。


不思議な女の子「モモ」に出会う

新学期になり末っ子も高校に入学し、PTAの役からも卒業しのんびり
過ごしているある日、友人の家でお茶しながら楽しんでいるときでした。

何気なく本箱を見ていると「モモ」と書かれたオレンジの表紙の本が
目にとまりました。

子どもの頃から本のある環境で育っていなかったので、初めて見る
タイトルの児童書でした。

またここで、自慢できない自慢話しですが・・・
私は三人の子育て中に「読み聞かせ」をして寝たことがないと言う
世にも信じられない出来の悪い母親だったことを懺悔します(汗)

そんな訳で読書に慣れていない私ですが、なんだか気になり
手に取りページを開いてみました。

そこには、愛蔵書 モモ  ミヒャエル・エンデ

「時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」
とあり、思わず面白そう・・・と目次を読みました。

童話なので、字も大きくついつい中に入っていく感じで借りて読むことにしました。
その時この本との出会いが私の人生を大きく変えることになるなんて
思ってもいませんでした。

読み進めるうち、この本の中に込められているメッセージがずんずん身体に入ってきました。
これは童話だけど・・・子どものための本ではなく私にメッセージされていると感じました。

なぜならその頃長男が一浪して大学には入学したのですが、ぜんぜん輝いていない気がして、
「どうして若者なのに成長に伴った輝きが出てこないのだろう?」という
疑問を持っているときでした。

この「疑問」はPTAの役員活動で知った学校現場での「子どもの不登校や非行問題」
でも気づいていましたが、なぜそうなるのかは見当もつきませんでした。

役員当時、「子供の問題はお母さんの問題ですから・・・」といわれ悩んでいる
真面目なお母さんにかけてあげられた言葉は「今はあなたのことだけど、
明日は我が身だと思うので、一緒に頑張ろう!」という実体のない言葉だけでした。

このように一緒に役員活動をして家庭や人柄も良く知り、絶対私より勤勉で真面目な
人だと信頼できるこのお母さんのどこに問題があるのかが解りませんでした。

苦しそうな仲間を救う手段のない自分が情けなくもあり、またいつ自分の身
にふりかかるか解らない不安も同時に感じていました。

解決策など考えもせず、それをごまかすかのように、
時間があれば友人と食事会やバドミントンに出かけ
楽しんでいた私でしたが心は少しも落ち着きませんでした。

夫に対してもイライラして、この落ち着かない自分ってなんなの?
日常生活で満たされてるはずの自分の立場がどうして満足できないのか?

そんな自分自身と向き合う必要を感じ始めていました。

そこで子どもたちを送りだす社会(未来)の環境問題などに興味を持つようになり、
友人に誘われ講演会を企画したりして学んでいるうち、少し問題点がみえてきました。

「経済優先の社会」ここにすべてが向かっていることがなんだか大きな問題を
生みだしているということに気づいたのですが、何しろ問題が大きすぎます。

またまたお恥ずかしい話しですが、丹波の田舎でのほほ~んと育った私は
それまで社会に問題があるなど考えたこともなく、学生運動も知りませんでした。

なにしろTVもない時代で書物による勉強をしなかった私は、社会のリーダーと
呼ばれる人たちに対し兄をはじめ先生の話を良く聞き、文句も言わず教科書に
書いてある問題を理解し良い成績をとり大学まで出た人たちのすることなのですから、
「うたがうなんてとんでもない!」私の辞書にはありませんでした。

問題の原因は個人から発生しそれは「家庭」にあるのだろうと思っていました。

しかし自分が置かれている生活の場を検証してみても「世間の常識範囲内」にあり
なにも「問題の種」があるようには感じませんでした。

そこで当時関わっていた「地球村」代表の高木さんの主催される大阪での宿泊
研修を受けることにしました。

すると社会の経済の仕組み特に現在の「貨幣経済のゆがみ」がみえてきました。
そして「お金」と引き換えに現在人の失っていくものが本当は一番大切なものなんだと
思えましたが解決法としては「非対立」「共生」を提案されるのでした。

それは人を変えるのではなく、自分自身の生活の見直しであり
「本当の豊かさ」とは何かを問われていると思えました。

また今から思うとタイミング良く「賢治の学校」主催者の鳥山さんの
講演会や映画(賢治はほほ~と・・・)ワークショップなど、友人に
誘われ企画から開催までを手伝っていました。

その時も読書をしていない私にとって「宮沢賢治の世界」を
何一つ知らないのでした(笑うしかない汗)

今は亡き宮沢賢治さんの世界を通して鳥山さんが
参加者に何を伝えたいのか?何も解らないまま半ば強引に
手伝わされることになった私は事前に一本のビデオを手渡されていました。

それはニュース23での筑紫哲也さんが鳥山さんにインタビューされる様子と
鳥山さんが問題解決のために全国各地でされている「ワークショップ」のもようでした。

初めて見た私は、不登校やDVなど問題解決のためとはいえ、
見ていてあまり気持ちの良い印象を受けませんでした。

そこで宮崎での「ワークショップ」当日も会場の準備や受け付けはするけど
参加しませんと事前に仲間のスタッフには伝えていました。

そこで同じ部屋にいて参加しませんと言っている自分の居場所がなく、
車座になって参加しているスタッフの背中にもたれ壁の方を向いて
時間を過ごすことにしました(今から思うと非常識な行動でした 笑)

ところがです、このリラックス具合が良かったのか悪かったのか・・・
見えてない車座の中の参加者に対し、鳥山さんが行事のように
参加者の表面的でない何かに話しかけているように感じるのです。

え~~この人は何をしているんだろう?と思いながら振り返ることもせず
目を閉じて聞いていると、知らないはずの参加者の心情がイメージとして
浮かんできたのです。

「ちょっと待って!」鳥山さんは何に向かって話し参加者の何に
対応をしようとされているのかしら?と思いました。

すると「たましい」・・・
「?」そう感じている自分がいました。

大変です!!
私は勉強していないから、「たましい」のことは何も知りません。

しかし今現実に私はその存在を感じているのですから・・・
のちにこのような世界を「精神世界」と言うのだと知りました。
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by sunnyww-yo | 2012-05-17 09:30 | こころとからだ

本当の話

私に起こっている本当の話(モモを生きる)。

人に説明するのが、本当にむずかしい体験。
それを文章にて表現など・・・大変たいへん!!

だけど説明しなければ解らないし、解ってもらえない。

私はこの5月の連休最終日に、一年遅れの還暦を祝う
高校の同窓会に参加しました。

もう何十年も会っていない同級生の中にたち、
「自分が何を感じ思うか」が参加の動機でした。

全学年に呼びかけられての同窓会なので、会場に着くと
受付周辺から160人以上の参加者の熱気でむんむんとしていました。

私の通っていた高校は、兵庫県丹波市にあるK高校と言って、
当時は普通科6クラス商業科・家政科は各2クラスからなっていたました。

私はあまり勉強が好きな方ではなかったから、とりあえず幼馴染と
同じ家政科に入学し無難に卒業までの時間を過ごしたと思っています。

とりわけ家政科の参加者は女子ばかりなので
用意されたテーブルはひときわ華やかでにぎやかでした。

生徒だった私たちが還暦を過ぎているのですから、
存命の恩師でこの場に列席できる人も少なく5~6人でした。

式が始まってあいさつなどが続く中で、卒業式当日、
式の最中に無意識なのに解放されるる嬉しさに、
身体が笑い出すのを必死でこらえたことが思い出されました。

そういえばこの体験は中学卒業の時も同じで、笑いをこらえるのに苦労
したことを思い出しました(今は亡き担任に知れればなんと不謹慎な!!)

このことを小さな声で、隣にいる人に話したのですが同感を得られませんでした
ので人それぞれだから・・・と恩師の話に再度耳をかたむけました。

列席下さった恩師はあまり見覚えのない方々ばかりで
普通科の先生らしい人が「この学年は特に思いで深い・・・」
と話される内容から、午黄の寅年生まれの私たちは、
扱いにくかったらしいと感じました(笑)。

最初(*^_^*)を合わせてすぐに名前の出てくる人もいれば、
胸の名札の旧姓を見てもしばらく誰か解らない人もいました。

しばらく時間が経つうちに大半の人が高校生の顔になって
懐かしい話しに花が咲き、会場は夏の蝉しぐれを想わせる状況になりました。


こんな調子で・・・書き進めて行けばいいのだと今実感!!
よ~~し、書き進めることにしよう。


さて話を同窓会場に戻して・・・
乾杯が終わり、会食が始まり

あまり見覚えのないYさんが近寄ってこられ、
「あなたには早弁でよくお弁当を食べられたわ・・・」

えっ、なんと身に覚えのないいいがかかりのように思えるお言葉。
そう言いながらもYさんの笑顔に、そんなこともあったかも(汗)

中でもとりわけ元気の良かったA子さんは、尊敬するおばさんの影響で
助産師になっていた。

もちろん現役で「桶谷式母乳育児相談室」と書かれた名刺ををみんなに
配っていた。

さすがだな~と感心していると、彼女が近寄って来て「Kちゃんのおかげで
苦手な英語の試験に赤点をとらずに済んだわ」と感謝された。

どうも試験の直前に、試験対策に私がまとめたノートが役に立ったらしい。
こんな調子で色いろな同級生と話していて、記憶にない自分が思い出され
どんどん高校生化していく自分を感じました。

私からは、卒業年度に体育祭の仮装行列に
ネィティブ・アメリカンの格好をして参加した仲間に
当時の動機などを聞いたり、入学して間もなくの臨海学校で
5キロの遠泳に参加した5人の仲間を確認したりしました。

思春期だった当時、格好良かったあこがれの体育担任の話に
目輝かせる子や泳ぎ終わってもらったキャラメルの味が
美味しかったねぇ~・・・などなど楽しく当時を共有しました。

遠泳も一緒だった色白でかわいいNちゃんは、セレブな家庭に嫁ぎ、
難なく嫁役もこなしながら現役のお嬢さん学校の教師を続けていました。

その彼女と「教育について・・・」と面白い話が進みつつあるところに
クラス別に分かれていたテーブルから移動する人も出てきて、
小学校から一緒だった人たちの輪に引っ張っていかれました。

小学生の時から学業で目立つことはなかった私は、
22歳で故郷から遠い宮崎に嫁ぎ参加していたので近況を知る人もなく、
同じ学校を出て地元で歯医者をしている兄の妹として紹介を受け、
違和感を感じながらも輪に加わりました。

その紹介のされ方で、高2の時の苦い記憶が思い出されました。
あの時も新学期が始まって最初の数学の授業のときでした。

「あぁ、Uの妹か・・・」と言われた一言で、その先生の授業を聞くのが
嫌になり、授業中は先生に見えないように机の引き出しから週刊誌を出し
読んでました。

そんな態度で試験に良い点がとれるはずがなく、好きだった数学で
とうとう赤点(落第点)をいただいてしまい追試を受ける羽目になりました。

しかしこの情況下で焦っている私の心情もしらず、担任も「U君の妹だから・・・
もう少し頑張って」と叱られることもなく励ましのお言葉をいただいきました。

この時私の胸の内は、「兄と私は違う!」という思いでしたが
口にすることはできず、どうして大人は・・・と納得のいかない
自分がいました。

しばらくしてこの輪から離れ、何気なく普通科の人たちのテーブルから
聞こえてくる会話が耳にとまりました。

「こう見えても、彼はS高校の校長を昨年退職したのよ」と
誰かにその校長経験者を紹介しているようでした。

聞こえてきたのは、普通科の進学クラスだった人たちの会話でした。

「校長を退職」なんとなく禿げた頭が後ろにそっくりかえったように見えましたが、
それが誰だか気にもなりませんでした。

それよりも、定年退職と言う制度があり、やっと人生の面白みがわかり、
その面白さを伝える時間やゆとりができた今、退職はもったいない気がしました。

それに比べたら、肩書も何もない人生を送ってきた私は訳もなく「今から・・・」
という思いがふつふつと湧いてくるのを感じていました。

このように身体の底から湧いてくるエネルギーを感じることはたびたびあり、
子どもたちと暮らしていたときは、そのエネルギーで踊るように動く私を
「モー変なお母さん!」といって笑われていました。

そうこうしているうちに閉会の時間となり、用意された二次会へと科ごとに
分かれて流れていきましたが、このようなエネルギーの話はもちろんですが、
誰とも今自分が感じている事をあまり深く話すことができませんでした。

「仕方がないな~」何といっても卒業後40年以上過ぎているのですから、
私も離婚経験者になってしまいましたが、連れ合いや子どもを亡くした方もおられ
笑顔を失いたくない思いがみんなにあり、あまり深く語ることは出来ませんでしたが、

それでも両親の介護の経験や嫁姑バトルを話してくれた同級生と
再会を約束して夜空に星が出るころ三次会を終え実家に戻りました。

ゆっくりとお風呂に入り湯船につかりながら、自分が40過ぎて受け継いできた
人生のタスキを次の世代の人たちに渡す時が来たのを感じていました。
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by sunnyww-yo | 2012-05-17 03:26 | こころとからだ